シティ・オン・ファイアー 「評価 C」
2012年、オーストラリアのニューサウスウェールズ州は、深刻な水不足に陥っていた。州総督のボードマンは脱塩プラントを設置して水不足の解決を図ったと発表したが、どういうわけか水不足は一向に改善の兆しが見えず、町では水泥棒が頻出する事態に。これに裏があると睨んだジャーナリストのスーザンは、政府が水の供給ルートに関して何か隠蔽していることがないか独自に取材を行っていた。そんな中、シドニー郊外の自然公園で幾つもの森林火災が立て続けに発生する。消防局のデビッドたちは懸命に消火活動に励むものの、放水の途中で水が止まり、なかなか火を消すことができない。その間にも各地の火災は合流し、1つの巨大な炎となって市街地を燃やし始める。いったい脱塩プラントの水はどこにいったのか。政府の説明に納得のいかないスーザンのもとに、良心の呵責に苛まれたボードマンの秘書から、とある映像が送られてきた。それに映っていたのは、ボードマンと電力会社が密約を結ぶ場面。ボードマンは脱塩プラントの水を提供する代償として、電力会社から多額の選挙資金を受け取っていたのである…。
「それは明日 現実になるかもしれない」というDVDの宣伝コピーが、サンディ・ハワードの「シティ・オン・ファイア」の冒頭テロップを彷彿とさせるオーストラリア映画。「ウォーター・パニック in L.A.」や「ソーラー・ストライク サード・インパクト」など、水不足を原因とするパニック映画はここ数年でコンスタントに作られるようになっており、本作もその内の一本に数えられる。ただ本作では水不足がもたらす被害を、民衆の暴動だとか、止むを得ず供給した水に細菌が入っているといった画的に地味なものではなく、火災という、水不足に直結していながらも見栄えのする表現方法で示していたのはなかなか秀逸なアイディアだった。しかし「未来はこうなるかもしれない」というシミュレーション映画としての性質が強いためか、本作ではパニック映画特有の爽快感というものが徹底的に排除されている。山火事の中を消防士たちが逃げ回るシーンや、化学プラントが大爆発を起こすシーンなど、本来のパニック映画ならば大きくクローズアップして見せ場として扱いそうな場面であっても、本作ではその大部分を車内カメラやテレビカメラを通しての映像で表現しており、あくまで「災害の一部」という扱いに留まっている。これは脚本面も同様で、スーザンは政府が隠していることを懸命に追っていながら、独力ではぜんぜん核心に迫ることができず、結局は内部告発で真相を知る。デビッドたちはひたすらに消火作業に励むが、途中で事態を打開するための妙案を思いつくなんてことはなく、火災に対して全く無力な存在として扱われている。このように本作には、ヒーローと呼べる人間が存在しないのである。緊迫する場面もなく、映像的な山場もなく、ただただ水不足の状況下における火災の被害を描き尽くす。それこそが本作の製作者の狙いであるため、単純明快な火災パニック映画を期待してこの映画を鑑賞すると、間違いなく手痛いしっぺ返しを食らうだろう。
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